第3節 北海道・帰神編 / 1973.3.24. Sat.
第15日 青森から札幌へ
青森(7:30)〜<青函連絡船/5便>〜函館(11:20)=(11:50)−<函館本線/304D 急行宗谷>−札幌(16:25)


▲北海道均一周遊券.最後の大阪−神戸は,三ノ宮駅で渡したために残っていない.
 いよいよ北海道に入ります.ここまで,北海道均一周遊券の往路途中下車という形で旅行をしてきました.実際に京都から北陸の方に出発したのは3月20日でしたが,有効期間が3月17日からになっています.これは3月18日の旅行記に書いたように,神戸市内−大阪間の移動に,この均一周遊券の往路分を使うためです.3月17日から20日間有効なので,この旅行は4月5日には終わらなければなりません.もっとも予定では4月3日に神戸に帰ることになっていました.

 さて,青函連絡船は「津軽丸」でした.都はるみさんの「涙の連絡船」という歌があります.場所ははっきりと記されていませんが,歌詞から見て,多分青函連絡船をモチーフにして作られたのではないかと思われます.同名映画の設定は九州でしたけど....青函連絡船は旅情をそそる要素がものすごくあります.特に夜に乗ると,対岸の明かりが見えない真っ黒の海に出て行くのが最果てのイメージに結びついて,北へ来たのだなという感覚が否が応でも湧き上がりました.私は合計4回乗船しましたが,昼間に乗るのはこれが初めてでした.

▲青森駅のスタンプと青函連絡船「津軽丸」のスタンプ.
 津軽海峡に出ると,雪が舞ってきました.海はしけていて,連絡船は大揺れに揺れました.気分が悪くなり,横になってじっと堪えるだけの旅になりました.そのせいで,連絡船上の記録がまったくありません.せっかく昼に乗ったのに,相当参っていたのでしょうね.函館に着くと,かの名物である「マラソン」を実行しました.これは,連絡船の乗り継ぎ列車に座るため,みんなわれ先に走ってホームに急ぐ姿をもじったものです.気分が悪かったのですが,それをものともせず走りました.

 急行宗谷には座ることができました.向かい合わせの4人掛けボックス座席の一つには女性が座っていました.そこにむさ苦しい男が3人座ったので,さぞうっとうしかったでしょうね.でも北海道はとても広く,函館から札幌まで300kmくらいありますから,座るというのは他のことを差し置いても実現すべき優先事項なのです.しばらくして検札の時に,その女性が大阪からの切符を持っていたのを見たので,「大阪からですか?」と口火を切りました.彼女は「東京からです」と返事されました.そして互いに自己紹介し,あまり馴れ馴れしくない程度に会話を交わしました.この女性とても美しい方だったので,手記に次のように記しています.

 目が大きくて,口元に特徴のある人です.二重まぶたがよく似合っています.鼻筋は通っていて,たいそうな美人です.ときどき唇のすき間から白い歯をのぞかせますが,とても可愛く見えます.きっと和服が似合うでしょう.
 今,目名のあたりを走っています.外は雪が降っていて,真っ白な世界が広がっています.この景色,北海道へ来た甲斐がありました.彼女は昨日夜行できたのでしょうか,ウトウトしてすぐに眠りに落ちそうになるのですが,すぐまた目を開けるのです.そして,大きな目で外を眺めます.そのときの横顔が,二重瞼の線で描かれている目が象徴するように,人形のように見えます.でもやはり都会の人です.なんとなくあか抜けしています.急行列車の中は地元の空気とは違っています.

 私たちは札幌で降りました.彼女は上川の方まで行くようです.お別れをして,宿泊地の札幌ハウスユースホステルへ急ぎました.

▲札幌ハウスユースホステルにて.同ユースホステルのスタンプ.
第3節 北海道・帰神編 / 1973.3.25. Sun.
第16日 札幌市内見物,そして日本最北端へ出発
...[札幌市内観光]...札幌駅=札幌(21:20)−<函館本線・宗谷本線/317レ 急行利尻>−[車中泊]

 今日は,札幌市内の見物です.ユースホステルを出た後,まず,札幌駅に行って荷物を預けました.当時は駅に一時預かりのシステムがあったのです.駅からは大通公園を通りオーロラタウンに行きました.少し地下街を歩いて,三越,丸井屋,長崎屋とショッピングをしました.三越では,ワイシャツとサファリジャケットを買いました.そして下着を買うために衣料品屋に入ったのですが,そこは婦人もの専門点,いやはや,顔が真っ青ではなく真っ赤になりました.下着は長崎屋で買いました.その後地下鉄に乗って真駒内へ行きました.

▲真駒内にて.札幌オリンピックの記念碑,屋内競技場観覧券と競技場内外の風景.
 真駒内スケート場では,スケートをしました.もっとも私は,スケート未経験でしたので,今回は見学にまわり,写真撮影専門にしました.スケートを楽しんだ後,バスで市内へ帰りました.お昼にサッポロラーメンを食べて,いなり寿司の早食い大会を見て,次に北大のポプラ並木を見に行きました.200mm望遠レンズを使って並木をぐっと引き寄せ,その間に立っている構図を考えたのですが,セルフタイマーの10秒間に撮影位置に行くのに,全速力で走らねばなりませんでした.

▲北海道大学構内のポプラ並木.赤レンガの旧北海道庁.札幌市営地下鉄乗車券.
 その後,赤レンガの旧北海道庁の前で写真を撮り,時計台へ行く予定でした.しかし,寒さが厳しくなってきて意欲減退,バスに乗って市街地へ戻りました.時計台はバスの中からチラリと見ることができました.

 地下街のオーロラタウンに下り,カラフリというコーヒーショップに入りました.考えてみれば,喫茶店に入ってゆっくりするというのは,この旅行ではほとんどなかったように記憶しています.忙しく移動するばかりの旅でしたから.ひとまずここでゆっくりと休憩し,手記を書きました.

 札幌の地下街は,歩く人の姿が,なんとなく神戸とは違う.そう感じるだけかも知れないが,コートを着てブーツを履いている.寒さに対して慣れているのだ.それぞれ色とりどりの防寒服を着て,悠然と地下街を歩いている.
 札幌の街にも憧れました.あの規則性と,いこいのある街に.今まで地元の神戸が素敵に見えていたのですが,札幌には負けたような気がしました.このオーロラタウンなる地下街も,さんちかたうんより素敵でしたし,噴水あり,小鳥までいました.都市計画の素晴らしさなんでしょう.新旧がうまく調和し,歴史も感じられました.ただ,寒いのはやっぱり堪えます.

 その後は時間つぶし状態になり,スマートボールなどをして過ごしました.これが意外と長くプレイできて,いい時間つぶしになりました.夕食はまたもやとんかつ定食.札幌は都会のせいでしょうか,450円しました.

 急行利尻は21:20発です.早い目に並んで座れるようにしました.これは夜行列車で,明朝稚内に着きます.いよいよ北海道最北端の宗谷岬へ行きます.佐多岬から宗谷岬へ,日本縦断ルートの終点になります.列車は満員状態でした.立っている方もおられるので窮屈ですが我慢して眠りにつきました.

第3節 北海道・帰神編 / 1973.3.26. Mon.
第17日 日本最北端 稚内にて
−[車中泊]−<宗谷本線/317レ 急行利尻>−稚内(6:25)=稚内駅(8:00)--<宗谷バス>−大岬(9;05)...[宗谷岬(大岬)見物]...大岬(12:30)--<宗谷バス>--稚内駅(13:35)...[稚内ユースホステル]


▲稚内駅にて.同駅スタンプ.
 稚内に着きました.昨夜はあまり寝られなかったので,少々眠たいです.これから,宗谷岬へ早速出かけます.宗谷バスに乗っておよそ1時間かかります.値段は280円.宗谷岬には流氷が着岸していました.流氷は北海道の東岸にはよく来るそうですが,宗谷岬には意外とやって来ないということを,後で聞きました.そういう意味ではついていたといえるでしょう.この日の19時のNHKニュースでは,この流氷は今冬最大のものである,と報道されていました.

▲宗谷岬にて.日本最北端の地,氷雪の門.海岸は流氷に覆われている.
▲宗谷岬にて.日本最北端の地の説明板と氷雪の門を背景にして.
 次に,列島縦断記念として,海岸の雪の上に「FROM 佐多岬」と書いて,宗谷岬の灯台をバックにして記念写真を撮りました.それ以外にも,旧海軍の見張り台や,あけぼの像を見たりしました.このあけぼの像は,北海道の牛乳生産量100万トン突破,および飼育乳牛50万頭突破を記念して,この2年前に建造されたということです.

▲都会の子は雪が積もると雪だるまをすぐ作る.氷雪の門と流氷,あけぼの像と灯台.
 次に,縦断記念として,海岸の雪の上に「FROM 佐多岬」と書いて,宗谷岬の灯台をバックにして記念写真を撮りました.それ以外にも,旧海軍の見張り台や,あけぼの像を見たりしました.このあけぼの像は,北海道の牛乳生産量100万トン突破,および飼育乳牛50万頭突破を記念して,この2年前に建造されたということです.

▲宗谷岬にて.「FROM 佐多岬」の文字を書いて,記念撮影.
 しばらく動き回った後,バスの時間を待ってぼんやりと流氷を見ていますと,遠くの方で,バキッともゴボッともいえないような妙な音や水の音が風に乗って聞こえているのに気づきました.そのときのようすを手記から書き出してみます.

 バスを待って海岸に腰を下ろしていると,風のまにまに,水の音がするのです.何かが流れているような音が.目を凝らして水平線を見ると,流氷のとける音だったのです.ずっと沖の方で,氷が割れ,それが波に流されてゆく.その音は文字に書けませんが,この耳にはっきりと残っています.何かしらすごく荘厳な出来事を見ているようでした.そして,次第にその裂け目が岸の方に近づいてくる.氷が水中に陥没しているのがみえます.北の果てにも春が訪れたのでしょう.潮にさらわれた流氷のかけらは,横へ横へと流れ,また新しい裂け目が岸に近づく.今まで真っ白だった水平線も,青黒い水面を見せはじめ,それが広がっていくのです.氷が盛り上がっては水中に...,とても素晴らしい風景を見ました.


▲凍てつく海や港と,オホーツク海.
 半日ほど宗谷岬で過ごした後,宗谷バスで稚内の街に帰りました.最果ての街はどことなくさみしい感じですが,そんな中にも活気が感じられました.少し早い目に今日の宿泊地,稚内ユースホステルに入りました.まわりには屋根から下ろした雪が積もり,軒からはつららが下がっていて,いかにも北の果てのユースホステルといった感じでした.

▲稚内ユースホステルにて.宗谷岬のスタンプ.
第3節 北海道・帰神編 / 1973.3.27. Tue.
第18日 最北を後にして白滝温泉へ
稚内(7:56)−<宗谷本線/324レ>−士別(13:52)=(14:02)−<宗谷本線/816D 急行なよろ1号>−旭川(15:01)=(15:40)−<石北本線/521レ>−白滝(18:13)

 日本一周旅行も折り返しです.これから,南へ向かい,出発地の神戸に向かいます.稚内からは鈍行列車の324列車に乗りました.これは私のわがままを友人に聞いてもらったのです.この列車は,数少ないC55という蒸気機関車が引く普通列車です.C55は,スポーク車輪の美しい蒸気機関車で,確かこの時期には,北海道と九州にしか残っていなかったように記憶しています.全国の本線上から蒸気機関車の引く列車がなくなった完全無煙化は,たしかこの2,3年後の,1975〜6年頃だったと思います.つまりこれは,もう最後になるかも知れない,C55牽引列車の乗車経験となります.

▲稚内駅に止まる324列車.C55 47が牽引する鈍行列車である.
 324列車は,稚内駅を定時の7:56に発車しました.地元の人がたくさん乗っています.少し行った豊富駅でたくさんの人が降りました.蒸気機関車のホイッスルの音が,山々にこだまするのが聞こえました.ドラフトの音はあまり聞こえなかったのですが,蒸気機関車の牽引する列車に乗っている気分は十分です.音威子府駅で駅弁を買いました.たったの200円.

▲走る324列車と音威子府駅の駅弁の包み.お寿司は100円と書いてあります.
 駅名を記録し忘れてしまったのですが,途中で,同じくC55の引く普通列車と行き違いました.鉄道ファンが,止まっているC55の写真を撮っています.3年前に北海道へ蒸気機関車の写真を撮る旅行に来たのですが,そのときは道南周遊券で,C55の走るここまで足が伸ばせなかったのです.3年越しでやり残したことが完遂できたという感じです.

▲上り324列車と行き違う下り普通列車.同じくC55が引いている.
 再び列車が発車しました.名寄から向かいに座った女の人と話をしました.いかにも北海道の人という,健康的な感じのする方で,旅の話や,北海道の話を聞きました.旭川の方の学校に行っているそうです.ということは,今は春休みなんでしょう.

 最果ての人々を運んでいた324列車とは士別でお別れし,急行なよろ1号に乗り換えました.急行はいっぱいに混んでいました.ちょっと風邪気味状態になっていましたので,立つのがとてもつらかったです.旭川で急行大雪4号に1分の連絡で接続していました(接続していると思ったといった方がいいかも)が,乗り継ぎできませんでした.仕方なく網走行き普通521列車に乗って白滝駅を目指しました.石北本線の車窓からは,どこまで行っても真っ白な雪景色が続くばかりで,とても単調な路線でした.白滝に着いたのは18:13.北海道の夕暮れは早いので急いで宿泊地の白滝温泉ユースホステルに行きました.もう,写真が撮れる明るさではありませんでした.

 白滝温泉ユースホステルは物静かなところで,まさに雪の中の一軒家といった感じのホステルでした.手記には次のように記しています.

 白滝温泉ユースホステルにはノートが置いてありました.ここを訪れたたくさんの人が,メモのようにいろいろなことを書き残していました.読んでみますと,多くの人が,寂しいとかいったことを書いています.またここは失恋の傷手の治療に効くのでしょうか.失意した人もたくさん来ていたようですし,逆にここで恋が芽生えたという人もいたようです.僕も書き置きをしました.とにかく,一風変わったユースホステルでした.

 白滝温泉は,ちょうど旭川と網走を結ぶ線の中間あたりに位置しています.一人になりたい人にはちょうどいいような地理的位置と雰囲気とがある場所でした.ここにはスタンプもなく,記念に残るようなものが何もありませんでしたので,夕食の箸袋を記念にもらってきました.

▲白滝温泉ユースホステルの夕食時の箸袋.
第3節 北海道・帰神編 / 1973.3.28. Wed.
第19日 網走から釧路へ
白滝(8:34)−<石北本線/613D 急行大雪1号>−網走(11:36)=(13:15)−<釧網線/633レ>−釧路(18:11)=(19:07)−<根室本線/424レ>−[車中泊]


▲白滝温泉ユースホステルにて.夜は撮れなかったので朝出かけるときに撮った.
 いやはや,北海道は本当に広いです.昨日は稚内から旭川を経由して白滝まで移動するだけで一日が終わってしまいました.今日も網走から釧路の方に向かいますが,ほとんど一日中移動ばかりになりそうです.しかも移動手段が普通列車と急行列車.特急というのは使っていないわけですから.

 まずは急行大雪1号で網走まで行きます.これで3時間.網走に着いたのはお昼です.網走では若干の乗り換え時間がありましたので,街へ出てみました.一番に感じたのは,魚の生臭いにおいでした.網走には漁港があるのでその関係かもしれません.網走の海にも流氷が来ていました.

 網走から釧網線の普通633列車に乗りました.この普通列車も蒸気機関車が引いていました.C58形式で,C58 197という番号になっています.私の乗った客車も古びたオハ62形式の客車です.椅子がやや高く座りにくかったことを覚えています.この普通列車に揺られながら,これから約5時間の旅です.どういうわけか写真を撮っていなくて,長々と手記を書いています.

 633列車は客をいっぱい乗せての出発です.みんな,どこまで行くのでしょうか.釧網線にもSLを追いかける鉄道ファンがいました.この釧網線は,何か古めかしく,線路の砂利もまばらで土に埋もれており,戦時中の鉄道を思い起こさせます.線路沿いには人家がなく野生のまま,自然のまま,未開拓という感じです.この列車の便所には「用水が凍りますのでお気の毒ですが利用できません(釧路区)」という札がかけられていました.いや,驚きました.5時間旅するのに...
 斜里から海岸を離れ,内陸部に入ります.摩周湖の近くの緑−川湯間は原生林がうっそうとしていて,熊の足跡と思われるものなんかもありました.弟子屈では,この列車の補機DE10 27の機関士と鉄道関係の方が,和やかに話をされています.弟子屈を過ぎると牧場がありました.今は雪で家畜はいませんでしたが,広々とした牧場です.サイロなんかもあり,色とりどりです.更科牧場なんていう粋な名前の牧場もありました.こんなところを蒸気機関車の音を聞きながら列車に揺られ旅する,最高です.
 広大な原野の落日を見ることもできます.茅沼駅では野生の丹頂づるを見ることができました.塘路駅で陽が没しました.夜が来ました.この釧網線を夜走ったら真っ暗な世界の中に迷い込んだ感じがするでしょう.列車は20分遅れていて,釧路に向かって急いでいます.やがて,真っ暗な中に釧路の街の灯が見えてきました.東釧路に着きました.もうすぐです.

 この633列車は地元の人もたくさん乗せて走っています.時々地元の人々の表情も見ていました.私は若いオスですから,どうしても若い女性に目がいくのですが,手記にはこんなことも書いています.

 網走駅で,色の白い細身の女の人を見かけ,その人がこの633列車に乗っています.僕の斜め向かいのボックスにいるのですが,何か一人で寂しそうな感じを漂わせています.髪をあまりまとめていなくて,ずっと外の景色を眺めています.僕と2,3度目が合いました.その向かいに,それとは対照的な,髪の色を薄く抜いて真ん中で分け,肩の部分が茶色であとは黒一色という,割合ハデな服装をした人がいます.この人も,目鼻が整っていて美しいです.この人は,ずっと本を読んでいました.
 網走から乗った人は弟子屈で降りました.残ったハデな感じの人の向かいに,ちょっと背の高い男の人が向かいに座りました.そしてこの女性に何か話しかけているのですが,彼女はあまり乗り気がしないようです.へへへ,いい気味...

 これを今読んでいると,私は寂しそうな雰囲気を漂わせている女性が好きだったようです(笑).さて,蒸気機関車の引く普通列車の旅は,十分に満喫できました.今日は釧路には泊まりません.このまま夜行列車に乗り継いで,札幌へと移動します.到着予定は,明朝5:36です.乗り継ぎはあるものの,白滝から丸一日中列車で過ごしています.移動するだけで精一杯,北海道の広さに圧倒されています.

 今晩は,金沢で釧路21:35発の狩勝3号の寝台券が取れなかったため,釧路発の普通424列車での車中泊になります.普通の夜行列車はきついように見えるかも知れませんが,乗る人が多くはなく,足を伸ばして寝ることができるので,悪くはないのです.寝てしまえば,急行も普通も変わらないですから.ということで,釧路で1時間足らず過ごし,乗り継ぎました.釧路の街の雰囲気はまったく感じることができませんでした.

第3節 北海道・帰神編 / 1973.3.29. Tue.
第20日 昭和新山,そして予定変更して本州へ
[車中泊]−<根室本線・函館本線/424レ>−札幌(5:36)=(6:55)−<千歳線・室蘭本線/6202D 急行すずらん1号>−洞爺(9:19)=洞爺駅--<道南バス>--[昭和新山見学]--<自家用車>--洞爺駅=洞爺(14:00)−<室蘭本線/224レ>−長万部(14:50)=(15:42)−<函館本線/122レ>−森(17:54)=(18:04)−<函館本線/306D 急行宗谷>−函館(18:55)=(19:25)〜<青函連絡船/16便>〜青森(23:15)=

 424列車の車中泊は,やはり疲れました.とにかく予定通り,札幌から洞爺の方へ移動し,昭和新山の見学に向かいました.洞爺駅から道南バスで昭和新山に行きました.洞爺駅から昭和新山の見学まで,ずっと一人旅の女性が一緒でした.お互い意識していたようですが,特に話をすることもなく,同じコースを旅しました.昭和新山という荒々しい風景の中に座って,遠くを眺めている一人旅の女性,ちょっと絵になっていました.でも,なぜ会話をしなかったのでしょうね.謎です.

 昭和新山の麓をちょっとだけ登ってみました.地面がとても暖かいのに驚きました.地面の下では赤々としたマグマがうごめいている感じが伝わってきました.周りには雪があるのですが,昭和新山だけは黒々とした地面をむき出しにしていました.理科系の3人組にとっては,こういう自然観光が一番性に合っているようです.

▲昭和新山にて.雪が積もっていない.左の人が行動を共にしただけの女性.
 昭和新山見学の後は,洞爺観光館ユースホステルに宿泊する予定でした.しかし,次の日は単に移動するだけで,その夜を過ごすはずの寝台特急ゆうづるの寝台券が取れなかったこともあり,これ以上北海道にとどまる理由がなくなりました.そこで,予定を変更し,今から東京に向かって移動することにしました.決めたら即行動です.

 洞爺駅に帰ろうとしていたら,なんと,優しい人がいるもので,洞爺駅まで自家用車で送ってあげるということで,車で運んでもらいました.

 洞爺駅から普通列車を乗り継いで函館まで,5時間以上かかります.本当に当惑するくらい北海道は広いんですね.行程表にあるように函館に着いたのは19時を過ぎていました.そして,青函連絡船に乗り継ぎます.青函連絡船は16便で羊蹄丸.青森には真夜中の到着です.青函連絡船ではトランプなどをやって過ごしましたが,とにかく眠いです.羊蹄丸のスタンプを押しました.

▲長万部駅,森駅,そして青函連絡船羊蹄丸のスタンプ.
第3節 北海道・帰神編 / 1973.3.30. Fri.
第21日 一路東京へ
青森(0:05)−<東北本線/102レ 急行八甲田>−上野(10:58)

 今日は車中泊で始まります.昨日も車中泊でしたから連泊です.例によって青森港に着いてから乗り継ぎのマラソンをやって,八甲田に乗りました.何とか座ることができました.混み具合は80%程度.寝苦しいですが,頑張って寝ることにします.この列車,黒磯駅からは,EF57という形式の電気機関車が牽引しました.前後にデッキのある,レトロな感じのする機関車です.

 上野に着きました.東京では友人の親戚の家にお世話になることになっています.しかし,上野駅での待ち合わせ場所に行き違いがあって,会えるのにずいぶん時間がかかったのを覚えています.でもなんとか無事に合流でき,家に上げていただいて荷物を下ろし,ほっとしました.疲れていますが,逆に疲れが興奮状態を呼び起こしているといった感じでした.

 到着してから4月1日まで,行動記録がまったくありません.3月31日,4月1日が土日でしたので,おそらく親戚の方にいろいろとお世話をしていただいたり,また疲れをとるためにだらだらしていたのだと思います.結局東京での活動は4月2日からになりました.東京での活動は,次回にまとめて書き留めておきたいと思います.

第3節 北海道・帰神編 / 1973.3.31-4.4. Sat.-Wed.
第22−26日 東京とその周辺
3.31.-4.1.:休息.4.2.(Mon):都内散策.4.3.(Tue):上野動物園他.4.4.(Wed):鎌倉.

1973.3.31, 4.1. Sat., Sun.

 休息日です.


1973.4.2. Mon.

 この日は,友人の知り合いの方に車で案内をしていただきました.上野動物園にバンダを見に行ってから,鎌倉へ行く予定です.しかし,パンダは月曜日が休息日で見ることができず,鎌倉は車が横浜のはずれで故障してそのまま引き返し,結局,今日一日動き回ったけれど全部空振りという日になりました.

 バンダの休息日を知った後,ボーリングをしようということになりましたが,どういうわけか友人がはぐれて行方不明?.で,これも空転.で,私は一人で上野公園を散歩しました.雨が降っていて人は少なかったのですが,どういうわけか,ゴミがいっぱいでした.ここは,1年前に,埼玉県のペンパル(文通友達)と歩いたことがあります.今ならSNSの友達,あるいはメル友というところでしょうね.手紙でやりとりしながら,いろんな話をしました.意を決してここで会ったというわけです.時代を感じますね.

 ぶらぶらと公園を一周しました.西郷隆盛の像は鳩の糞と雨で異様な感じに見えましたけれども,家族づれの笑顔,楽しそうなカップル,楽しそうに過ごす人々の姿もありました.都会,東京ですね.そんな感じで過ごした後,雨なので,友人と合流して,親戚宅に帰りました.なんか,今日は空転の一日でした.


1973.4.3. Tue.

 今日はパンダを見ることができるので,上野動物園に行きました.たくさんの人が動物園の入り口に並んでいます.今,その入り口からはほど遠いところにいるのです.ちょうど,科学博物館の前あたりです.ここから,ホールの前,池のまわりを一周して,やっと入り口です.距離にして500mくらいはあるでしょうか.そればかりでなく,私たちの後ろにはどんどん人が並んでいくのです.みんな上野駅から走ってきています.すごいパンダブームです.まるで人を見に来たみたい.

 とにかく並んで,徐々に進んで,やがて入園,そしてパンダの檻の前に来ました.「止まらないでください」という係員の声が響きます.動く歩道に乗っているみたいに,移動しながらパンダの前を通り過ぎて終わりでした.カンカンの方は横になって通り過ぎる人をじっと見つめていました.ランランはもうそ知らん顔で仰向けになってひっくり返っていました.人がパンダを見るというより,パンダが人を見ているといった方がぴったりするような感じでした.

 地下鉄に降りて食道でラーメンを食べました.なんとゴキブリの子どもが浮いていました.でも,それをのけて食べちゃった.その後銀座へ出ました.銀座では国労がデモをやっていました.これはある意味東京名物と言えるでしょうね.その後映画を見て,銀座4丁目をブラブラ,いわゆる銀ブラをしました.三越,三愛ビルなどを見,夕方が来てネオンがつき始めるのを見ました.東京の都会美を堪能しました.


1973.4.4. Wed.

 今日も雨が降りました.富士急ハイランドへ遊びに行く予定にしていましたが,目的のジャイアントコースターに乗れないので,断念.そこで,電車に乗って鎌倉へ行きました.横須賀線に乗って,雨の古都を訪れる,ちょっといい感じです.しかし気温が低く,寒い.鎌倉駅からバスで大仏を見にいって,その後四条金吾邸を見,あと入館料をケチって土牢と十一面観音像は門だけを見て,江ノ島海岸をちょっと歩いて,とにかく寒いのでそそくさと江ノ島電鉄で鎌倉まで帰りました.そのまま東京へ引き返したのはいうまでもありません.

▲鎌倉の大仏にて.雨が降っていてとにかく寒かった.
第3節 北海道・帰神編 / 1973.4.5. Fri.
第27日 帰神
東京(10:00)−<東海道本線/1101レ 急行桜島・高千穂>−三ノ宮(18:38)

 いよいよ,日本一周旅行の最終日がやって来ました.今日は神戸へ帰るだけです.東京で予定より長く過ごしたこともあって,お金が底をつき,新幹線の特急券(当時1,900円)が買えず均一周遊券で乗れる急行で帰ることにしました.このころは,東京発の九州方面行きの急行が何本か走っていました.最終的には夜行になるのですが,大阪方面までは昼行の急行です.ただ時間は,8時間半ほどかかります.新幹線が新大阪まで3時間10分という時代です.この列車は桜島と高千穂という2つの急行が一つになって九州まで行って,途中で編成を分けて別々の急行になります.私たちは,14号車の高千穂の車両に乗っています.最後は手記から引用しましょう.

 振り返ってみれば,約1ヶ月前,新神戸駅に集まって岡山へ,そこから四国,九州へ行ったのが,もうずっと昔のようです.数々の思い出をいっぱい詰めて,最後の列車1101レは発車しようとしています....
 今列車は浜名湖あたりを走っています.もう,すっかり空も晴れ上がって,ポカポカ春の陽気です.窓を開けると春の息吹が感じられます.浜名湖では,春休みの最後でしょうか,たくさんの親子が潮干狩りをしています.10日前は雪に閉ざされた稚内にいました.季節の移り変わりが早送りの映像のようです....
 列車は大阪に近づいています.夕陽が西に大きく傾いています.夕陽は,あの雪の原野,釧網線の根釧台地で見たものと同じでしょうか? 山の稜線もなく,雲の中に隠れるようにして見えなくなりました.都会に沈む夕陽は,どことなく疲れているように見えました.大阪に着きました.次の停車駅は三ノ宮です.いよいよ旅行も終わります.


▲東京駅と三ノ宮駅の駅スタンプ.いずれも旅行の最終日,1973.4.5.の日付が打たれている.