鉄道と旅 1970s
餘部鉄橋を歩いて渡る! 1969年3月24日 [山陰本線]
餘部鉄橋を渡る726列車
▲餘部鉄橋を渡る726列車.DF50牽引の普通列車.
 番最初のお話はこれに決めていました.餘部鉄橋の訪問記です.

 餘部鉄橋を初めて訪れたのは,今から48年前のまだ寒さが残る春休みでした.テレビの旅行番組の紹介で,この旅を思いつきました.この当時は餘部駅に停車する普通列車の本数がとても少なく,というより,乗降客が少ないためでしょうか,普通列車でさえ多くが餘部駅に止まらず通り過ぎてしまうのです.餘部駅はそんな田舎の小さな駅でした.今ほどまだ鉄橋自体が有名ではなかった時代でもありました.そこで,餘部駅に行くために,一つ東隣の駅,鎧駅で「普通列車」を降り,線路沿いを歩いて餘部駅まで行く,といったことが「公然と」行われていました.このことがテレビの番組で紹介されたのです.

 鉄キチの私としては,ぜひこれを実行してみたかったのです.幸い友人3人も同行しようということになり,わざわざ餘部駅に停車しない普通721列車を選び,鎧駅で下車しました.駅員の方に

「餘部に行きたいのですが」

と言いますと,駅員の方は驚く様子もなく,

 「じゃあ,線路に沿って行ってください.ただ特急がもうすぐ通りますから,トンネルを一つ越えたところで,特急を待ってください.それが通り過ぎたら,続いてもう一つトンネルを渡って,少し行ったところで最後に餘部鉄橋を渡ってください.

と言ってくれました(多少言葉は違うと思いますがこのようなことを言いました).そう,この当時,餘部鉄橋は地元の人の通行路だったのです!.

 私たちは,721列車の後押しをしてきたD51 675補機(写真)に別れを告げ,どきどきしながら,鎧駅から餘部に向かって歩き始めました.言われたとおり一つ目のトンネルを抜けた後,特急を待ちました.特急は「やくも」号.いまはもう多分見られない80系のディーゼル特急です(写真).特急が通り過ぎて,二つめの長いトンネルを越え,しばらく行くと,目の前に餘部鉄橋が姿を現しました.

特急やくもなど
▲右下の写真のように,線路と手すりの間の板の上を歩いて渡るのだ.
 鉄道目的の旅ですから,もちろん時刻表を持っていますし,貨物列車の時刻も某情報誌から情報を得ていました.鉄橋を渡る前にSLの引く貨物列車の写真を撮りました(写真).

餘部鉄橋を渡るD51牽引の貨物列車
▲餘部鉄橋を渡る,D51が引く貨物列車.
 そしておもむろに餘部鉄橋を渡り始めました.41メートルの高さがある餘部鉄橋の上はとても怖く,高所恐怖症気味の私は,足がすくんだのを覚えています.鉄道橋ですから,下がすぐ横から見えるのです.手すりも隙間だらけ.でも友人との約束で,餘部鉄橋から紙飛行機を飛ばしました.紙飛行機は風に乗ってすいすいとかなり遠方まで飛んでいったようです.そんなことをして鉄橋の上で遊んでいましたから,途中で普通158D列車に橋の上で出会ってしまいました(写真).

 渡り終わってから,急行だいせん1号(写真)を見送りました.

餘部鉄橋を渡るD51牽引の貨物列車
▲左:餘部鉄橋上から見た海.右:急行だいせん1号.701D列車.
 今ではこんな旅は「危険」ということで絶対にできないでしょうが,昔のよき日の旅だったと思っています.餘部鉄橋から撮影した海の景色は,もう二度と撮影できないでしょうね.行ってよかった....

 さて,餘部鉄橋を渡った私たちは,餘部鉄橋の見学をしました.下から見上げた餘部鉄橋は,まさに「鉄の橋」そのもので,鉄骨がリベットで固定されて組み立てられた生き物のようです.見上げてわかる鉄橋の高さ.あの隙間だらけの板の通路を渡ったんですね.

下から見上げた餘部鉄橋
▲下から見上げた餘部鉄橋.こんな高いところを重たい列車が通るというのは信じがたいです.
 そういえば,このあとしばらくして餘部鉄橋からの列車転落事故がありました.SYDROSE LP の記事によりますと,事故は,1986年12月28日に,「福知山発浜坂行きの回送列車が走行中,最大風速33m/sの突風にあおられて客車7両が約41m下に転落し,水産加工工場と民家を直撃した.」とあります.

 まあ,当時はそんなことはわかる由もありません.餘部鉄橋が架かるのどかな風景を味わって,その晩は餘部ユースホステルに宿泊しました.

海側から見た餘部鉄橋
▲海側から見た餘部鉄橋.左側に見える洞門を抜けて餘部鉄橋を右方向に渡りました.
海側から見た餘部鉄橋
▲海側から見た餘部鉄橋.向かって右側が浜坂方向になりますので,これは下り列車です.DF50が引く723列車です.
餘部ユースホステルから見た餘部鉄橋
▲餘部ユースホステルから見た餘部鉄橋.今は新鉄橋ができ,道の駅などもできて賑わっていますが当時は田舎そのものでした.
 次の日,私たちは鳥取砂丘を目指しました.さすがにこの日は,歩いて鉄橋を渡るなんてことはせず,餘部に止まる列車で旅をスタートすることにしました.ユースホステルから駅へ移動しました.駅には,DF50 546の引く上り列車が停車していました.餘部駅で降りる人々がいます.水産加工工場があるということですから,そこで働いている方でしょうか? のどかな田舎という感じですが,しっかりと経済活動が行われているという生活感がありました.さらに,私たちの乗る列車には,サラリーマンとみられる通勤客の方々が,結構たくさんの乗り込んでいました.

朝の餘部駅
▲朝の餘部駅.これは上り列車で,この次の列車に乗る予定です.
私たちの乗車する下りディーゼル列車
▲私たちの乗車する下りディーゼル列車.餘部から乗る通勤客が結構いるのにちょっとびっくり.
 この当時,山陰本線には,DF50の引く旅客列車もありましたが,多くの列車,とくに貨物列車はほとんどがD51が牽引していました.鳥取駅へ行く途中,そういった列車とすれ違いながら,旅を続けました.

 途中駅で,D51 1018の引く貨物列車を追い越しました.今では多分もう使われていない腕木信号機が現役で使われているのが写っていました.下の写真で,向かって左側にある腕木信号機が私たちの乗っている列車用です.この写真は進行方向後ろに向かって撮影していますので,もう信号を通り過ぎています.腕木が下がっているのが「出発信号が青」ということで,この列車が発車できたということになります.一方で,右側に移っている腕木信号機はるD51の貨物列車用の出発信号機で,この腕木は横になっていますね.これは「出発信号が赤」を意味しています.ですから,貨物列車は出発せず,待っているというわけです.

途中駅で追い越したD51 1018の引く貨物列車
▲鳥取への途中駅で追い越したD51 1018の引く貨物列車.駅名・列車番号不明.腕木信号機が現役で使われています.
 列車が鳥取駅に近づきました.鳥取の機関区には,たくさんの蒸気機関車が集結しています.まだまだこの時代,ディーゼル機関車より蒸気機関車が主力であることが見て取れます.もっとも,これは山陰本線という,まだまだ国鉄(まだJRではない!)の近代化が後回しにされているローカル本線の宿命なのでしょうね.この5年前に東京オリンピックが開かれ,東海道新幹線が開通したという時代ですから.さらに大阪万博はこの翌年です.

鳥取駅構内を走るC11 101
▲鳥取駅構内を走るC11 101.
鳥取機関区に集結している蒸気機関車たち
▲鳥取機関区に集結している蒸気機関車たち.中央のC57 97は後に播但線で出会っています.
 鳥取砂丘は,「1989年,鳥取市白兎を西端に,東端の鳥取市福部町岩戸まで約15.5kmにわたり沿岸部に砂丘地が連続していた.1989年当時の鳥取市沿岸の砂丘地面積は1,332haと推測された.2001年,砂丘地としてまとまって残る国指定天然記念物鳥取砂丘は,海岸部の長さ約2km,面積160haと推定された.鳥取沿岸の海岸砂丘面積はこの100年間に約9割減少し,砂丘地として残っているのは面積比で約12%にとどまる.(永松,2014)」ということで,同論文の図2を見ると,私たちの訪れた時期に近い1972年は,すでにこの2001年とほぼ同じ領域になっています.それでも,私たちが訪れたときは,風紋が見られる「砂丘」の世界でした.

鳥取砂丘の風紋
▲鳥取砂丘の風紋.
 鳥取砂丘を見たあと,すぐに帰途につきました.何しろ私が高校生の時の旅ですから,ぎりぎりまで活動はできません.また普通列車での旅です.鳥取から帰るのには時間がかかりますので,明るいうちに帰りの列車に乗りました.まあ,蒸気機関車を見るのも目的ですからこれでいいのです.帰りにもたくさんの蒸気機関車に出会いました.山陰本線は蒸気機関車の宝庫でしたね.

待避線に入っている貨物列車
▲待避線に入っている貨物列車.D51 254.鳥取から佐津の間.
後補機のD51 458
▲後補機のD51 458.837列車.佐津駅にて行き違い.
 餘部鉄橋も通過しました.この列車は餘部駅に停車しません.今回の旅は餘部鉄橋がメインの旅でしたので,列車の窓から写真を撮って,別れを告げました.さらに次の駅,このたびのスタートを切った鎧駅には,D51の引く旅客列車が行き違いを待っていました.

 撮影した駅名は記録にありませんが,積雪をかいて走るラッセル車が冬の仕事を終えて,待避線でお休みしていました.ひょっとしたら季節外れの雪に備えて待っているのかもしれません.キ100型だと思います.これは現在は現役を退いているはずです.

列車の窓から見る餘部鉄橋
▲列車の窓から見る餘部鉄橋.
鎧駅で行き違うD51 831とラッセル車キ100型
▲左:鎧駅で行き違うD51 831,右:春が来てこれからしばらくお休みのラッセル車 キ100型.当時は山陰線で現役であった.
 いよいよ旅も終わりに近づきました.城崎駅にも蒸気機関車が止まっていました.現在は「こうのとり」という,287系,289系などの近代的な特急が人々を運んでいます.この時代は,有名な温泉地には違いありませんでしたが,止まっている列車は,やはり時代を感じさせるものです.

城崎駅に停車する列車たち
▲城崎駅に停車する列車たち.D51 944の引く貨物列車,向かいのホームには客車が止まっている.
 そのあと,私たちは,播但線を通って帰っていきました.播但線はその後よく訪れた路線です.これはまた別のページでご紹介します.C11 178の引く,寺前−姫路間の普通列車を,寺前駅で撮影しました.この普通列車は,寺前駅に転車台がないために,下りはC11が逆向きで列車を引いています.だから,これは上り列車ということになります.

播但線の蒸気機関車,C11 178
▲播但線の蒸気機関車,C11 178.寺前駅.1636列車.
<引用文献>
永松 大,2014.鳥取砂丘における最近60年間の海浜植生変化と人為インパクト.景観生態学 19(1):15-24.
SYDROSE LP(サイドローズ),2003−2017,失敗百選 〜余部鉄橋から列車転落〜 (http://www.sydrose.com/case100/206/).2017.10.15.現在.