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2013.4.1/エッセイ
抽象的な映画を現実的に観る

映画の解釈を抽象的な,感覚的な言葉で語ることがよくなされている.特に解釈の難しい映画を説明するときにはよく使われる.しかし人間の脳,あるいはその神経ネットワークが,環境との関わりの中で形成されて来るという生物学的な事実,そして生まれてきてからも数々の経験がイメージを作り上げていくという事実を考えてみると,人間がつくる映像は,必ずどこかで現実との接点をもっているものと考えられる.そういった考え方から,私は,映画の中に展開される映像やストーリーは,現実の言葉や経験的事実に還元して説明できるはずであると思っている.それが制作者や監督の非常に個別的なものであったとしてもである.

ここでは,そういった視点で,難解で有名なデヴィッドリンチ監督作品のイレイザーヘッドを見ていきたいと思っている.以下では,すべて断定調で語っているが,本来は語尾に「…と思う」とついていると考えていただきたい.

イレイザーヘッドは,主人公のヘンリーという一人の若者の生き様を映像化したものである.貧しい,社会的な弱者である彼は,粗末なアパート暮らしをし,諦めにも似たような毎日を送っている.そんな彼にもロマンスはあった.恋人ができ付き合いもしていた.恋人メアリーも決して裕福な家庭の子ではなく,病気の祖母,配管工の父親,その生活に満足していない母親と共に生活をしているような状態である.そんな二人の幸せは,肌を触れあうその一時であったのだろう.だが,世間一般によくある結末と同じ,そのうち子どもができてしまった.母親は,今の生活が好転するかもしれないというほとんど唯一の希望であった娘を孕ませたヘンリーに激怒し,結婚を迫る.ヘンリーにとっても,今後新しい恋人ができて幸せになれる展望があるわけでもなく,結婚を承諾する.同居を始めたものの,こんな形で結婚した夫婦がうまくいくはずもなく,子育ての苦労もあって,結局メアリーは家を出て実家へ帰ってしまう.ヘンリーは残された子どもを一時は育てようとする.これも普通の父親の感情であろう.そんな中,向かいの美女と一夜を過ごす機会に恵まれる.美女の意図は分からないが,どんなにさえない男だって,こういったチャンスは一生に一度くらいはあるだろう.妻に去られ,子どもを抱えた男の心情からすれば,ほとんどあり得ない希望と知りながらも,この状況にすがりつきたくなるのは当然である.しかしそれも,美女が他の男と部屋に入るのを見て,無惨に打ち砕かれる.そしてますます深い絶望感にとらわれる.結局,子どもを殺し,自身も自殺する.

イレーザーヘッドの世界を創りだした現実的基礎は,こういった,ある意味平凡な人生の姿ではないかと考えている.平凡というのは,よくある話ということであるが,その状況に立っている個人にとっては,平凡という言葉では語れないほどの絶望・苦悩の中に落ち込んでいるはずだ.この映画はその苦悩や絶望や快楽や願望などを非現実的な映像を使って表現しているだと,私は考えている.

たとえば,メアリーの家に夕食に招待されたときに,チキンが動いたり,体から液体がどろどろ出てきたのは,メアリーの両親の怒りを象徴している.決してあなたを歓迎してはいないという怒りを表現している.しかし一方で,娘と結婚したら,一応義理の親子という関係で生活もしなければならない.父親の不気味な笑顔は,それを表現している.

子どもが奇怪な姿をしているのは,もう明らかだと思われるが,この子が,誰からも望まれた子でないことを象徴的に表現している.メアリーの母親にとっては,自分の希望を打ち砕いた怪物であり,メアリーにとっては,自分の人生を束縛する人間であり,ヘンリーにとっては,まだ十分に愛情を注げない異邦人的な存在である.そんな彼が,病気になった子どもを加湿器で看病する様は,病気の時に何をしてよいか分からない男親のあわてぶりを表現していて滑稽である.子供を持った男性なら感じられると思うが,このあたり,父親と子どもの微妙な心理的距離感が描かれている.一方母親メアリーと子どもの距離感は,子育てにいらつくあたり,愛憎ともに距離が非常に近いことを,極めて普通に描いている.

美女とのベッドシーンで白い水の中に水没するシーンは,言わずもがなであろう.ヘンリーにとって強烈なセックスであったことを表現している.

その他にも,郵便箱のムシ,メアリーの体から出てきた細長い生き物上の物体とそれを踏みつぶす行動,脳みそが消しゴムになることなど,たくさんの奇怪な映像があるが,二人の立場や心情を考えるときっと解釈がつくものと考えている.

難解な映画も,このように現実的な基礎をきちんとつなげていけば,解釈できるのではないかと思う.もっとも,あまり夢はなくなってしまうが.最後に,イレイザーヘッドのこの解釈が当を得たものであるかどうかは私には分からない.監督のみが知ることである.



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