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2013.12.25/エッセイ
森高千里

私は,森高千里(芸能人なので敬称は略させていただく)の詞が大好きな人間である.初めて森高千里の存在を知ったのは,1997年だったかと思う.もう,ラメラメ・フリフリの時代が終わって,声帯を傷めて長期休業を経た後のころである.何を歌っていたのかは忘れたが,テレビで歌っているクリップが,たまたま別の番組を録画した残りの部分に録画されていたのだ.もう長い間 J-POP などからは縁が切れていたが,思わずCDを探しに,中古メディアショップへ出かけたのだった.

さて,何がこんなに衝撃だったのかというと,たぶん例にもれず,はじめはその容姿であった.今までにない自分のタイプだとまさに電気が走ったのだ.そして,一番はじめに買ったCDは「PEACHBERRY」だった.いわゆるあこがれから始まった執着であったが,曲を何度も聞いているうちに,不思議と一つの共感が生まれてきたのである.歌詞が,「心情を風景に投影して表現している」という点である.この中の SWEET CANDY という曲など,その典型ではないかと思う.全部転載するわけにはいかないので,一部を引用させていただく.

「......

南風が夏の 街を通り抜けてく
今年の夏も あぁ 終わっていくのかな

映画館の前で はしゃいでいる子供達が
私の事を見ながら 手を振っている
空が蜜の色に 染まってくる夕暮れには
もう見えなくなるのかな あの白い月

......」(森高千里,1997)

失恋のような強烈な思い出というのは,そのときに自分がいた場所や風景に,深く焼き付けられているものであろう.私の初恋は大学生の時で少し奥手であったが,最初の苦い思い出は下宿の屋上で,二人で星を見ていたときであった.今でも,その風景は鮮烈に残っている.たとえば,そういった失恋の経験を詞にしようとするとき,悲しい心に向き合って,心の情景を詩にするか,その思い出が焼き付いた風景を詞にするかで,詞の感じは大きく変わってくる.私は,森高千里は,後者の感覚の持ち主ではないかと想像している.

上の SWEET CANDY は,失恋の時に焼き付いた風景ではないだろう.これは,想像するに,今まで彼と一緒に街を歩いていたときには,幸せに包まれて気にもしなかったその景色が,傷心を引きずって街を歩いている今はやたらとはっきり目に入ってくる,ということだろうと思う.その細かい一つひとつの風景描写が,逆に彼を失ってぽっかりできた空白を見事に表現していると思う.本当にいい歌詞だ.

森高千里は,自身の言葉で,作詞に関して次のように言っている.「具体的な作業としてわたしの場合は,詞を書くときに曲をもらってそれを何回も聴いて,浮かんできた情景や感情,言葉をメモする(森高千里 STEP BY STEP,1996).」,「詞を書くようになって,詞の中に自分をさらけだすこと,詞を通じて私という人間の性格を理解してもらうことの大切さも知りました(月刊カドカワ,1994年9月号)」.

このように,風景に心情を投影できる,というのは,彼女の心の中にそういう『情景』や『感情』が自然と生まれるからなのだろう.そういう意味では,私は,森高千里の歌詞というより,そういう情感を生み出せる『人』そのものが好きなのかもしれない.もちろんそれは私がそういう人間であるから,類を求めて,こういう感覚について語り合う誰かを求めているともいえる.

森高千里は,そのデビュー当時からコンサート映像がたくさん残されている.デビューのころの精一杯の姿から,引退を少し後に控えた,SAVA SAVA TOUR のころの余裕のあるコンサートさばきまで,アーティストとしての成長はもとより,人間としての成長が非常にはっきりと感じ取れる.ポカリスエットのイメージガールコンテストでグランプリを取ったことで芸能界デビューした森高千里は,はじめのうちは何も分からず,いわれるがままに映画やコンサートをやっていたようである.しかし活動を続けるうち,自分と向き合い,自分に何ができるかを考え,マイナス要因をもプラスに転じさせて,自分というもので勝負しようとする姿勢が鮮明になってくる.

あまり人間に興味を持たない私なのであるが,森高千里だけは違った.一度,森高千里の魅力についてどこかで書いてみたいと思っていた.まだ十分思いがまとまっていない部分もあって,この文章は,今後加筆訂正がなされそうな気がする.


引用文献:
1.森高千里,1997.SWEET CANDY.EPCA-7010,ブックレット.ONE UP Music INC.
2.森高千里,1994.森高千里オリジナリティ,月刊カドカワ,1994年9月号.
3.森高千里,1996.STEP BY STEP.扶桑社,東京.



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