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2011.12.21/エッセイ
自然保護に関する価値観の私的混乱

私は一介のナチュラリストとしての活動をしているが,最近は,希少な,あるいはそうでないものでも,生き物を大切にする,さらには自然環境を護ることは自明のこととして語られることが多い.同好の人たちと話をしていても,ほとんど何の疑いもなくそういう価値観のもとで発言したり,活動したりしている.しかし,「自然保護」の価値とは一体何なのか,この問題は,かなり前から私を悩ませている.

ナチュラリストと称する人たちは,毎日のように直接自然とふれあっている.それもある特定の分類群の生物にかなり濃密に接しているので,それらの盛衰を肌で感じることができる.だから,それらの生き物を護りたい,と感じるのもごく自然なことである.私もそういった感情は常に持っている.しかし私がここで述べたいのはそういう心情の話ではない.

鷲谷いづみ・矢原徹一氏が著した「保全生態学入門」という本があり,この中に,「生物多様性」の価値を論じた部分がある.こういった哲学的な問題を科学啓蒙書で解説するのは,環境保全という価値が自明のことではないという著者の意識の表れであると推察される.

この本によると,生物多様性の価値は,大きく分けて,「直接的価値」と「間接的価値」があるとする.前者は「消費的使用価値」と「生産的使用価値」とに,後者は「非消費的使用価値」,「予備的使用価値」および「存在価値」に,それぞれ分けられている.「○○使用価値」と称するものは,内容は何であれ,自然は人が利用できるので価値があるということである.最後の「存在価値」が少し立場が異なるものである.少し引用すると,「地球の歴史とともに長い年月をかけた生物進化という特別な過程によって形成され,それぞれ固有な生態的条件のもとに維持されている生物の多様性は,それ自体が尊く,慈しむべきものである」とし,さらに1982年の国連総会で採択された世界自然憲章から,「ヒトは自然の一部であり,すべての生命は尊厳を持って考えられるべきである」という部分を引用し,最後に「地球と生物の長い歴史の所産である『種』を人為的に絶滅させたり,生物多様性を損なうことは,倫理的に許されるものではない」と結んでいる.

私はこういった価値論は理解できる.ただ私がこだわっているのは,上の引用にもあるが,「ヒトは自然の一部である」という部分である.これは世界自然憲章に次のように書かれている部分から,引用したものと考えられる.

Mankind is a part of nature and life depends on the uninterrupted functioning of natural systems which ensure the supply of energy and nutrients.

<自訳>ヒトは自然の一部であり,エネルギーと栄養の供給を確かなものとしている自然のシステムの持続的な機能に依存している.

この場合,ヒトを自然の一部ととらえているのは,ヒトは「自然の」機能に依存して生きているから,ということであろう.そこで,この後,「故に,ヒトは自然を大切にしなければならない」というふうに端的に結んだとすると,これは「ヒトが今後も健全に生き発展していくために自然を護るべきだ」,ということになり,結局ヒトとヒト以外の自然を対立的に捉えていることになる.

「ヒトは自然の一部である」ということを文字通り「ヒトは自然に含まれる」と解釈するならば,たとえば環境を改変することは,大脳を進化させてきたヒトの「自然な」営みであるということになる.つまり,現在の人類の文化も都市も科学技術も工業化も薬剤使用も,すべてが「自然の」枠組みの中で起きているいることといえる.その結果,仮に人類が滅びたとしても,それは「自然な」こととなる.

こういった考え方が非常に危険な思想であることは,たぶん間違いないだろう.絶滅可能性を担保にして,今の自由奔放な人類の活動を肯定することにつながるのだから.しかし,地質時代を,絶滅と繁栄でくぐり抜けてきた生物の歴史をみると,ヒトという種も,その中のほんの一員でしかないことは紛れもない事実である.極端な話,環境破壊によって人類が滅んでしまったとしても,今から1億年も経てば,また「別の」生き物あふれる「自然豊かな」地球が復活している可能性は十分にある.地球から見ればヒトとはそういった存在であろう.私の知り合いのある女性が言った「自然破壊,自然破壊と人間がいくら叫んでも,地球さんは笑っているよ」と言った言葉が忘れられない.

こう考えると,ヒトと自然を対立的に捉えた自然保護思想は,ヒトのためのものであって,ヒト以外の自然のためのものではない.しかし逆説的に言えば,それがヒトという種にとってもっとも「自然」でもあるのだ.自分を護るために自然を護る.生物が自己保存のために行動するのはもっとも「自然な」営みである.ヒトを枠外に置いた上での「地球を大切にする」とか「生物多様性を大切にする」とかいう考え方は,すべて「ヒトを護る」ということが目的となる.

ところで,たとえば「○○という種はいなくても,別に人類が滅びるわけではない」といった論理もある.人類存続のために必要十分な(最小限の)自然を護ればよいといった考え方もある.そこで,ある種が絶滅しそうだからといってそれが人類の存続にどうつながるかどうかといったことについては誰にも証明はできないから,「予防措置的に自然を護りましょう」,といった論理が生まれる.

特定の生物群の研究者・研究家が,彼らの愛すべき種が消えようとしているときに,この論理に飛びつきたくなるのは当然である.現在自然保護の思想は,法や条例に制定されるほど,かなり社会に浸透している.だから,この論理もかなり社会で通用する論理になっている.でも,法や条例に基づいて種が消えることを避けようとする行動を始めると,社会に経済的負担をかけることが現実的にはかなり多い.私もそういった中に身を置いたことがあるが,納税者としては非常に悩ましいところだ.

本格的な研究者でもない一介のナチュラリストが自然保護を叫んでもいいのか,という悩みは,私にとってかなり深刻である.そっと自然の現状を観察して,その事実を公表するのが精一杯ということにならないか.ただ,その事実も本当に正しい情報をもとに認定していることなのかという不安が伴う.

自然保護の思想には,こういった考え方のほかにも,次世代の子どもたちのために豊かな自然を残すといった,教育的な観点もある.その他,歴史性,希少性など,価値の置き所はたくさんあろう.しかし何に価値を置いても,結局「価値」というものは,一人ひとりの人間の生き方の中で判断されるものなのであるから,自分はどういう生き方をするのか,という問題に帰結してしまう.ここで私は思考が停止する.そしてなかなか前に進めないでいる自分がいる.


<引用文献>
1.鷲谷いづみ・矢原徹一,1996.保全生態学入門.文一総合出版,東京.



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