故人生幸朗師匠のボヤキ漫才ではないが,最近なんか世の中の「表に出てくる」ものの考え方に違和感を感じ,ぼやきたくなることが多い.あまりにも ALL or NOTHING 的,あるいはステレオタイプ的過ぎるのではないか,ということである.
たとえば,酒気帯び運転・一発懲戒免職とかいった,多分多くの職場にあるであろう「規律」がある.断っておくが,私は酒気帯び運転・飲酒運転をしても良いなどと言っているのではない.飲酒運転という法を犯したあとの法的処置のあり方を言っているのでもない.職場の処置の「決め方」について言っているのだ.私もドライバーであり,夜酒を飲むことがある.そうすると,次の日の朝でも運転するのが怖いときがある.スピード違反はメーターを見れば判断できる.一時停止違反や一方通行違反は標識を見れば判断できる.しかし,今の自分のアルコール濃度が「血中0.3mg/mlまたは呼気中0.15mg/l」という違反の限度を超えているかどうかは,自身では判断できない.ごく普通の人が,通常の努力で判断できないことで結果として懲戒免職になる,という図式を許しているところにものすごい恐ろしさを感じる.
殺人事件でも,裁判で情状酌量の余地がある場合がある.この場合,物事の背景を考え,ケースバイケースで判断して判決を出すというのが法の精神であろう.懲戒免職とかいった,その人の人生を根本的に変えてしまうような処分を,情状の余地なく決めることが “できる” ような「規律」が,何の疑いもなく決められていく.もう一度言うが,わたしは飲酒運転をしてもよいと言っているのではない.何か大きな問題があると,すぐに ALL or NOTHING 的な対応をとることが目立つ今の社会風潮に変なものを感じると言っているだけである.
話は変わるが,政治家が最近軽率な発言をするということがよく報道される.与党の要職にある者がそういう発言をすると,野党はすぐに辞職しろと叫ぶ.ここにもものすごく単純なALL or NOTHING 的な図式がある.ここでもあえて言うが,私は軽率な発言がいいと言っているのではない.閣僚といった日本の国を動かす人々は,もっと注意深く考えて言を発すべきだということは至極当然のことであり,彼らの重要な資質であろう.しかし責任の取らせ方が「辞職」というそれだけ? 現実的には,発言の状況に応じてさまざまな責任の取らせ方があるような気がする.要は,物事の対応にあまりにも幅がなさ過ぎるということが言いたいだけだ.もちろん,これは野党の戦略という政治の駆け引きなのだろう.しかしそれを差し引いても,今の社会はこういった図式を容認しているような気がするのは,私だけだろうか.いや容認しているというより,それ以外の色々な意見を言えない世の中の雰囲気になっているのではないかと感じ,恐ろしい.
ものごとを二極化し,対立の構図として描くことで,ある概念は非常に理解しやすくなる.社会科学や自然科学でもよくなされる論法である.そして最近ではマスコミがよくこの論法を使っている.小泉首相の時代から,「○○劇場」という言葉がマスコミで使われるようになった.ドキュメンタリーをドラマ化するのに一番分かりやすい手法が,この二極化の手法である.小泉首相は「抵抗勢力」という言葉を使って,自身の立場と反対勢力の立場を二極化して表現した.これは非常に分かりやすい.民主党の小沢−反小沢というのも同じである.
最近では,大阪市長選挙で,平松氏の陣営が,橋下氏の政治手法を「独裁」という言葉を使って表現した.平松氏陣営の立場を「民主主義」という立場で(もちろんこのように公言はしていないかもしれないが),それに対し橋下氏の立場を「独裁」という言葉で表現し,二極化している.実際,「独裁」などということは橋下氏にできるはずもなく,民主主義のルールに則って府政を運営し,また市長選に立候補しているはずである.だから「独裁」と言って批判するのは,厳しくいうと「名誉毀損」になるのではないかとさえ思う.せいぜい許される表現は「独裁的手法」という語までであろう.
二極化はこのように物事を単純化して,わかりやすくする.でも,社会科学や自然科学で概念を二極化するのは,事実を明らかにするための出発点であるということだ.二極化した後,ある事象は,その二極化された概念のどちらの要素をどれくらい持っているかを分析・議論して,その両極の間のしかるべき位置に置かれていく.
ところが,今のマスコミをはじめとした情報提供者は,そこまでやらない.本当の分析はここから始まるのに,むしろどちらの極に入るかという類別を多くやっているような気がする.これは本来の二極化の趣旨とは逆の方向を向いていて,概念に事実を(無理に)合わせようとしているのだ.ALL or NOTHING も一種の二極化に他ならない.今の社会は,二極化した時点で,もはや思考停止してしまっているのではないかと感じる.