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2015.12.31/エッセイ
男の愛は意志である −私的恋愛論−

私は学生時代あまりもてなかった.臆病でアバンチュールできなかったという方が正しいかもしれないが,2人ほどの女性と短期間付き合ったことがあるだけである.恋愛について憧れを抱きながら,有り余るひとりの時間,自分の情熱を昇華するためたくさんの書物を読んだ.そして自分の内なる情熱の正体についていろいろと思索をめぐらせた.

一方,わたしはその当時生物学を専攻していたから,人間も動物の一員であるというものの見方が強く心に染みついていた.これは現在も変わらない.どういうことかというと,感情や感覚,あるいは理性も含めて,これらのものは進化の産物であるという考えである.つまり進化というものが繁殖成功度(子孫を多く残すのに成功する確率)が高まるような方向に進んでいき,現在のさまざまな生物の特性はその結果もたらされたものであるという,基本的な考え方が染みついているということだ.

さて,その当時の考え方を整理すると,少なくとも男性にとっては,恋は感情であり,愛は意志である(あるいは意志でなければ本当の愛ではないといってもよい)ということである.

まずなぜ恋は感情かということから述べてみたい.感情というのは,必ずそれを引き起こす刺激が外部に存在する.たとえば,嬉しいという感情は外部の刺激がないところで突然現れるものではない.自分のうれしさを引き起こす外部の刺激があって,初めて嬉しいという感情が湧き起こる.たとえば宝くじが当たった(=外部の刺激)から嬉しい(=感情)のである.外部の刺激がないところで突然嬉しがると,まわりにいる人はきっとその人を理解できないし,気がふれたのではないかとさえ思うであろう.つまり感情とは,刺激に対する反応として現れるものであり,それが自然で,遺伝子に深く刻み込まれた人間の進化の産物であると考えてよいであろう.なお,過去のことを思い出してある種の感情がわき起こるということもあるが,記憶も過去の経験がもとになっているので,時間を経て現出した外部の刺激といえる.

恋は,突然か知らぬ間にかは別としても,基本的に相手が存在して生まれるものである.恋には必ず対象があり,その対象は特定の相手であることは間違いない.それが身のまわりの異性でなく,アイドルタレントであれアニメのキャラクターであっても,何かしら対象があって燃え上がるものである.これは,「特定の人」の存在が刺激となった「反応」に他ならない.恋した時の気持ちは「恋」という語以外ではなかなか表現しにくいものであるが,やはりある人の存在が刺激となり引き起こされた特定の「感情」といってよいのではないだろうか.だから自発的に恋することはできないし,また恋は突然にやってくるものでもある.自発的に悲しみや喜びの感情を引き起こすことができないのと同様である.

恋すると,その先にはその人と結ばれたいという気持ちが待っているのが普通であるので,これは生物学的に見れば子孫を残す強い動機となる.恋すると,あらゆる困難を乗り越えてでもその人と結ばれたいと狂気にも似た行動さえとることがあるわけだから,子孫を残すために有利に働く反応行動だと思われる.さらに恋が満たされ結ばれるとたまらない至福感が訪れるものだが,これも子育てというその後に訪れる苦労とのバランスシートという点で,それを乗り越えようとする動機を与えているともいえよう.あるいはちょっとうがった見方をするならば,その苦労を一時的に忘れさせ繁殖に走らせるための,遺伝子の罠かもしれない.

さて,「恋愛」という文字にあるもう一つのキーワードは「愛」である.愛という語は非常につかみにくい語である.フランス映画などを見ていると,愛は性愛であるとして描いているのではないかと思わされることが多い.しかし一方では人類愛,兄弟愛,親子愛というような,広く他者に対する思いやりのような意味でも使われている.そこで私は,恋愛という場面で使われる「愛」に限定して考えることにした.恋愛の中の愛とは,いうまでもなく,特定の男女のカップルの間に存在する愛である.

恋愛の「恋」が,相手という存在に対する反応として生じる感情ならば,「愛」にはそれと違う意味が含まれていると考えるべきであろう.これは「恋」を補うものであり,「恋」では成し遂げることができないことを成し遂げるためのものである.ここまで進化した人間のみが持ちうる精神がなし得る「何か」であると思われる.

もし恋愛というものが二人の間で永遠を志向するものであるとするならば,恋は.それをなしうるには力が足りない.感情というものは決して長続きはしないものだ.どんなに深い悲しみも時間が解決してくれるし,喜びもいつまでも続くものではない.これは,刺激に対する反応として生じている感情,つまり恋の持つ,いわば限界である.とすると,「愛」がその欠点を補うものとしての機能を果たすことになる,いやならねばならない.

時間が経っても変わらず保ち続けることができる人間の精神の営みは,「意志」に他ならない.私は,この強い意志こそ「愛」の本質をなすものであると考えている.結婚式で「…,病めるときも,….」というお決まりのフレーズがあるが,こういった状況を乗り越える人間の精神力は「意志」の力であろう.強い意志(=愛)があってこそ,二人の恋愛は永遠(=人生の長さ)を志向することが可能となる.意志は感情と違って,自発的に持つことができる.これはつまり「愛する」という能動的な行為を行うための必要条件である.

恋によって子育ての苦労予感を乗り越えて結婚に踏み切り,愛によって結婚生活を支えていくというのが,私の結婚観である.しかし,愛(=意志)を強く育てるのには,もう一つ重要な条件がある.それは「信頼」である.人間は元来弱いものであるから,強い意志も,何のサポートもなしには,長い時間持ち続けることはできない.意志を育て,持続させるのに必要なものこそが,相手に対する信頼である.恋の情熱が冷め,愛の意志が弱まる前に,お互いの人間関係をつくり,信頼を醸成することができれば,意志の力も補強され続け,困難な人生も乗り越えていくことができると思う.

とりわけ,男という性に要求されるのは,この強い意志であろう.それは,男の方が,脳の構造から見ても感情の右脳と理性の左脳の分離がはっきりとしているからで,感情に流されず,意志を貫きやすい特性を持っているからである.こういうことからも,私は男の愛の姿は強い意志の力で示されるべきと考えている.


追記:

このように考えると,恋は生物学的なものであり,愛は社会学的なものであるという見方もできる.人間が動物として繁殖していくなら,恋だけで十分である.しかし,この社会の枠組みの中で生きていくなら,愛(=意志)が必要である,ということになる.恋は社会の枠組みを超えたところで存在する普遍的なものであるのに対し,愛は社会体制の中でその形が変わりうるものであるともいえる.人が不倫をするのは生物学的な衝動に基づくものであろう.またその行為が今の日本社会の中で非難されるのは,その当事者の配偶者に対する「愛」の深さが疑われていることに他ならない.



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