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2017.3.12/エッセイ
阪神淡路大震災,東日本大震災,そしてシン・ゴジラ

シン・ゴジラを観た.

私は神戸在住で,阪神淡路大震災を直接体験した一人である.地震当日,出勤途中で渋滞に巻き込まれ,燃え盛る火事を見ていた.目の前のガソリンスタンドが爆発しないかという恐怖感を持ちながら,前にも後にも進まない状況下でそのまま何時間か過ごした.その時の風景と恐怖は今も記憶に焼き付いている.地震後は,倒れたビルの間を歩いて通り抜けて毎日職場と家を往復した.通りなれた生田新道は,建物がもたれ合うように倒れ掛かっていた.ゴジラ映画をよく見ていた私は,火事にしても建物の崩壊にしても,まるでゴジラが通った後の映画のシーンに見えた.

2011年3月には,東日本大震災が起きた.私はリアルタイムのニュース報道番組を24時間近く録画した.時間がたった後の報道は,映像が編集され当時の混乱や災害の酷さが伝わってこないことを,阪神淡路大震災の時に感じていたからだ.今でも時々その映像を見ることがある.同じ情報が繰り返し報道される中,少しずつ新しい状況が報道に加わっていく.はじめのうち津波の映像が多かったが,しばらくすると原発の状況を伝える報道が多くなり始めた.原発事故の報道内容はほとんどが推測ばかりであった.その後の水素爆発など,これらの推測をあざ笑うかのように事故が深刻化していき,人間の無力さを否が応でも感じさせられた.

東日本大震災の3年後,仕事がらみで,避難指示解除準備区域となった南相馬市小高区に入る経験を持った.その中で通行止めとなっている浪江町の境目まで行った.途中刻々と上がっていく線量計の値を見ていると,その先の方に暗黒の世界が広がっているように感じて,心が冷たくなった.浪江町の封鎖場所の地上1m付近の線量は 2.5μSv/hr 程度だったのでそれほど危険な値ではなかったが, 暖かい春の日差しを浴びた普通の田舎の風景の中に,人の命に影響を与える目に見えないものが存在するという恐怖感はただものではなかった.そして街をいくら進んでも人に出会うことがない全くの無人地帯.家や畑や川や橋などはそのままで信号も変わらず赤や青に点灯していた.これは映画でもなんでもない現実なのだということが,底知れぬ恐ろしさを感じさせるに十分であった.

話を元に戻そう.シン・ゴジラを観た時,私は,これは震災と原発事故をモチーフにした映画だと思った.似たようなことはネットのあちこちに書かれているので,映画の分析はそちらにまかせて,ここではもっぱら私が感じたことを中心に書くことにする.

ゴジラはある日突然東京湾に出現した.この突然感は震災の突然感と同じである.はじめのうちは怖さより興味が先に立ったような一般の人々の行動が描かれている.私も阪神淡路大震災を経験した当日は事の大きさを認識できず,むしろ平常の心で事態に反応し行動しようとする心理が強く働いたことを覚えている.心のどこかに鍵をかけて,平然をとりつくろっていたように思う.悲しいと思ってはいけないと感じていた.そうしないと自分が壊れそうな予感もあった.笑いながら地下避難路を避難する若者たちも同じではないかと感じた.

ゴジラの幼体が呑川を船を蹴散らしながら遡っていく姿は,津波が川を逆流する姿をほうふつとさせる.そして津波が川の堤防を乗り越え陸地へ侵入していくように,ゴジラの幼体が上陸する.自動車を蹴散らし,建物を押しつぶし,ゴジラが津波のように人や車を押し流していく.川からあふれた船や水が人を追いかけるシーンがある.これは東日本大震災のときどこかで見た映像と完全に重なる.また子供を含む家族が建物に押しつぶされるシーンがあった.一階が潰れ,まだ人がいる中での建物の崩壊は,老若男女を区別せず,突如襲ってくる地震の災害そのものである.そしてゴジラが移動した後の状態は,先に述べたように私が阪神淡路大震災で見た風景そのものであった.

街を荒らしまわったゴジラはいったん海へ引き返す.しかしその後,ゴジラの移動経路が放射能で汚染されていることに気づいた.この時点から映画の世界は,単なる「物理的力」による災害から「放射能汚染」という新たな災害状況に突入した.私はこれを観て,当初は津波が中心であった震災報道が,津波が引いたあと,徐々に原発が大変な状況になっているという報道に変化していったことと似ていると思った.そして次第に放射能のことが,映画でも実際の震災報道でも大きく取り上げられるようになっていく.

映画の中で「ゴジラはただ移動しているだけですよ」というセリフがある.これはゴジラは意思を持って東京を襲っているのではないことを見る人に伝えている.核兵器は明らかにある国の意思に基づいて投下されるが,自然災害は人に対して何らかの意思を持って襲いかかるものではない.このセリフからもこの映画のゴジラは自然災害を象徴しているものと感じられる.

続いて,映画ではゴジラ誕生の秘密が明かされる.核廃棄物を食ったことがその原因という設定になっている.核廃棄物が核兵器製造過程で生じたものか原発から生じたものかは,映画では明らかにされていない.昔のゴジラの立ち位置から考えると,核兵器製造過程で生じたものという解釈にすべきかもしれないが,私には原発の放射性廃棄物を想定しているように感じられた.1954年の初代ゴジラは水爆で誕生したという位置づけであったのに対し,今回は原発の放射性廃棄物からゴジラが誕生したというふうに私は読み取るべきではないかと考えている.このことによって,初代ゴジラとシン・ゴジラの伝えようとするメッセージの違いがはっきりとするからだ.

映画はさらに進む.いよいよゴジラは最終形態となって,再上陸する.再上陸したゴジラは,自衛隊の攻撃にも全く動じず,東京へと侵入していく.人が現在考えうる最善の対処をしてもコントロールできない状況は,地震・津波という自然災害,さらに原発事故の状態そのものに見える.実際の原発事故では,津波による電源喪失の報道に始まって,建屋が水素爆発して放射能を持った物質が放出され,汚染地域が広がる.避難区域が指定されて避難勧告が行われ,住民が故郷を捨てて避難をしていった.全くの受け身に回らざるを得ない我々人間の姿は,そのまま映画の中に描かれている.

ゴジラの火焔の吹き出し方が今までとかなり違っている.地面に向かって黒い煙状のものを吐き出し,それが赤い火焔となり,最後に白紫の光線となる.放射性物質を含む黒い煙や赤い火焔を非常に広い範囲にまき散らしていくシーンは,原発から漏れ出る放射能汚染を可視化しているように見えた.

福島第一原発事故から6年経った.私たちは,この事故原発に対して,思考停止状態になっていないだろうか.考えるだけで気が遠くなりそうな事故終結までの時間.机上の工程はできているようだが,時々報道される情報からは,その通りに行くようにとても感じられない現状.考えても答えが出ない,自分の力ではどうしようもないとき,人は往々にしてその問題から目をそらし考えるのを止める.でも現実は,何かの拍子に原子炉を冷却できなくなって,溶け落ちている核燃料が発熱を再開する可能性はゼロではない.その一つのきっかけになりうるのは,次にやってくると予測されている大きな地震であろう.

最後にゴジラは凍結という方法で一時停止状態になって映画は終わる.凍結されて立っているこのゴジラは,緊迫感を与え,人に思考停止をさせない迫力を持つ存在である.ゴジラの今までと異なる戦慄的な容姿は放射能の恐ろしさを,東京という場所は原発のすぐそばには必ず人が生活しているのだという再認識を,そして凍結されても死なずその内部では活動をしている(はずの)ゴジラの生命力は放射能の長期にわたって絶えることのない力を,それぞれ象徴的に表現しているように感じる.私はこの最後のシーンこそ,福島第一原発事故を忘れるな,という強烈なメッセージになっていると感じるのだ.

私にとってこの映画は,とてもリアルに震災を想起するものであった.



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