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2017.11.26./エッセイ
自由ほどしんどいものはない

 今朝,テレビのニュースで,「君たちはどう生きるか」という漫画が大反響をよんでいるというニュースを見ました.このニュースを見て,この本の内容とは全く関係ない(というかまだ読んでいない)ことですが,若いころ考えていたことがふと頭をよぎりました.

 私は子どものころに両親の離婚を経験しました.それまでは,いい子でさえいれば親は子どものためなら何でもしてくれる存在のように思っていました.親子の間に暗黙の信頼関係のようなものが存在しているような気がしていました.しかし,離婚は絶対いやだという私の訴えに反して両親は離婚してしまいました.そのとき,親には親の人生があって子どもの思い通りには動いてくれないこともあるのだということをいやというほど実感させられました.その日から「親に気に入られるいい子」でさえあれば生きていくのに何の不自由も感じなかった生活から,いきなり依るすべのない荒野に放り出された感じがしました.その日を境に,私は生きる意味が見えなくなってしまいました.「自分は何のために生きているのだろう」という疑問と戦う日々が始まりました.

 私は母親に引き取られましたが,幸い経済的には破綻していなかったので,その後大学へ進学することができました.そのころの国立大学は入学金が4,000円,授業料が月1,000円という今では信じられない料金でしたから,母子家庭でも大丈夫だったんですね.ただ学生生活は乱れ,昼夜が逆転するような生活を送り始めました.

 そんなとき私をかろうじて踏みとどまらせてくれたのが「倫理学」でした.「倫理学」などと書けばなんと堅いことという風に感じられるかもしれません.でも上の「君たちはどう生きるか」という本をAmazonで検索してみると,そのカテゴリーに「倫理学」,「哲学」という文字が目に入るはずです.こうった言葉は日常生活から遙か遠い言葉のように今では思われているのかもしれませんが,この本がベストセラーになるということは,今多くの人に倫理学や哲学が求められているのではないかと,私には感じられます.「自分は何のために生きるか」というような問いかけは,倫理学・哲学の問題です.

 さて,理科系人間の私が大学の一般教養の倫理学の授業で学んだことで当時の自分の気持ちと一番合致したのが,相対主義という考え方でした.かみ砕いていえば,これは価値判断には正解がないということです.言い換えれば,価値判断は,大きくいえば文化,小さくいえば個人の中では正解があるかもしれないが,どれが正しいということはできない(=文化や個人によって正解が異なる)ということです.

 自分の依って立つ「親への依存」から急激に解放された私は,良くいえば自由人,悪くいえば生きるための価値基準を持たない人間にさせられたのでした.私は「何のために生きるのか」,「なぜ生きるのか」といったといった答えをさがすのに懸命でした.それまでは,親の価値観や親に気に入られるように生きるといった,私にとっての「価値」にしたがって生きていけばよかったので,人生について深く考えることもなく,とても楽でした.

 多分,どの子どもでも,やがて親離れして,そういった価値観から離脱していくのだとは思いますが,このときそういった価値観が存在すれば,それを基準にして,自分の生きていく方向性が決められるわけです.親の考え方に反発するとか,親の考え方を認めそれをさらに実現して生きていこうとするか.その両極端の間に適当な位置を見つけて生きていくか(多分普通はこういうことになるのでしょう),いずれにしても基準があれば自分の方向性だけを決めればよいということになります.さらにここには親子の愛情とか親の厳格さ(=親の価値観)だとか,様々な個別の要素が介入しているので,それがいろいろな個別の人生をつくっていくのだとは思います.でもその底辺には親子のつながりという中で育まれたこれらの価値観が存在しているはずです.

 親の離婚は,子どものこういった人生の基準となる価値観を,大なり小なり崩壊させるのだと私は信じています.そして混沌とした相対主義的価値観の海に放り出されるのです.自分にとって世の中で一番大切にしている親の離婚でさえ許されるのだったら,もうどんな生き方をしてもかまわないと,子どもには思えてしまうのです.ではどんな生き方をするか,当然答えは簡単には見つかりません.基準がないので,まるで海に放り出されてつかまる物がないような状況です.ですから,まずつかまる物をさがすことに必死になります.

 学生時代乱れた生活をしたと書きました.徹夜麻雀を毎日のようにやったり,酒を飲んだりしました.もちろん授業には出ず街をうろついていました.そして一年,一般的には無意味ともいえるその乱れた生活が,そういった生活からは何も生まれないということを知らしめる,貴重な経験になりました.私の人生に一つの価値基準が芽生えたのです.個人の価値基準は経験からのみ生み出されるものなのでしょうか.無意味ともいえる生活経験でもそれを通り過ぎるしかないのでしょうか.私にはわかりません.唯一私に言えることは,人生には無駄がないということです.乱れた生活の意味を私は知ったからです.

 私は,このときの自身の混乱から,今の若者たちの感覚が,なんとなく理解できる気がしています.今の時代,子どもたちは,自由に育てられ,将来何になるか,人生をどう歩むかについて,自分で考えろといわれて教育されています.特定の価値観を押しつけることは,むしろ良くないこととされているように見えます.でもそれは子どもたちにとって,かなりしんどいことです.かなり回り道(=多くの経験)をしないと,確固とした自分の人生の価値観を築けないのではないでしょうか.フリーター,晩婚化,...,いわゆるモラトリアム時代が私の若いころとは違って長期化していますが,これらも,若者が自由を克服するために必要としている時間のせいなのかもしれません.

 学生時代二年目からは,それまでの親の仕送り生活に頼らず,自力でアルバイトをして生活費や学費を稼ぐことが私にとって重要な価値であると考えて,アルバイトを始め,授業にも出始めました.この価値観は今でも私の中に息づいています.大学を卒業したのは普通の人より三年遅れましたが,なんとか第一の人生を終えて現在円満退職を迎えることができました.

 「君たちはどう生きるか」では,考えること,悩むことの大切さを説いている,とテレビニュースでは解説していました.これはいわば自由の代償ともいうべきものだと思います.自由とはしんどいものです.でも考えて,行動して,自分の中に生きていくための価値観を形成すること,これが大切だと私も思います.

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